墨色。#2
幼い時から、刺青を目にする環境で育ったわけでもなく、
運命の出会いは、ある日突然やってきた。
数ある職業の中で、この仕事に手招きされ呼ばれたのではないだろうか。
私に出来る何かをするために。平凡だった普通の主婦が刺青師になる。
今思えば、この仕事を通じ自分を知ることが、私には必要だったのだろうと思う。
未だ根強く残る入れ墨への偏見。大昔、罪人に施されたという入れ墨が、その暗い一面を消せずにいることは、いざ仕方ないことなのかもしれない。だから私は、入れ墨とは言わず、あえて刺青と表現したい。
刺青は江戸時代、彫り物として町民の間に栄えた文化である。
切腹を認められなかった町民にとって、自己の心意気や気合いを示す一つの方法だった。
お金をかけてまで痛みに耐えることは、武士という大きな権力に対する生き様の証でもあったのだ。
時代が変わり、刺青がその偏見を越え、自己の人生を表現するひとつのツールとして息づく日が、果たしてこの先やってくるのだろうか。
そしてまた、体に出来た手術の後や傷を消し、それが美しいものへと変わることを楽しむ。髪を染め、ネイルで遊ぶのと同じように。それを見るたびに心が明るくなるようなアートとして受け入れられる日が。
環境が整えられ、表現の自由や、職業の自由が認められる。そんな時代がやってくる日が。
自分の肌に施された、消えることのない幻想的な肌を、美しいと思える感性を持った人たちがこの世には存在する。
刺青はそんな人達が、心に明かりを灯すひとつの方法であること。また、痛みに耐えることで、人生の困難を乗り越える力に変える、不思議なお守りのような存在であること。
自分を知り、人生を共に生きる為の糧であることと願いを込めて、私は刺青師として、生きてきた。
いや、そう思うことで、否定されることや、認められない自分から、逃げてきたもかもしれない。
ずっと探して続けてきた、人が生きることの意味は、心も体も武装せず、素直に自分に向きあった時、はじめて見つけることができるのだろう。
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